第1部:人体解剖学を学ぶ事はなぜ必要だったか?
第1部:人体解剖学を学ぶ事はなぜ必要だったか?
私はこれまで、鍼灸師、整体師として数多くの患者様に向き合い、施術を重ねてきました。
身体の痛みや不調に苦しむ方、心身のバランスを崩して日常生活に支障をきたしている方。そうした患者様の声に耳を傾け、手を尽くしてきた日々の中で、常に胸の奥に残っていた思いがあります。
それは、「自分は本当に人体を理解できているのだろうか?」 という問いでした。
もちろん、これまで学んできたことが全て無駄だったわけではありません。
参考書や教科書で体系的に学んだ知識、数々の技術セミナーで吸収した最新の手技や理論。
それらを組み合わせることで、患者様に対して理路整然とした説明を行うことはできましたし、施術の効果を実感していただける場面も少なくありませんでした。
しかし、私の心にはいつも「確信が持てない」という影がつきまとっていました。
なぜなら、私の知識はすべて 「読んだ知識」 に過ぎなかったからです。
図鑑や参考書の中の美しいイラスト。セミナー講師の力強い言葉。先輩治療家の経験に裏打ちされたアドバイス。それらは確かに学びとして大切でしたが、どれも「私自身が自分の目で確かめたもの」ではありませんでした。
患者様から「先生、この痛みはどこからきているのですか?」と質問を受けたとき、私は解剖学の本に書かれている説明をそのまま言い換えて伝えることしかできませんでした。
その瞬間、どこか自分が“借り物の言葉”で答えているように感じ、患者様の信頼に十分に応えられていないのではないかという不安が胸をよぎるのです。
さらに私は、施術をすればするほど「この手技は本当に筋膜に届いているのか?」「鍼は狙った深さに適切に入っているのか?」「整体のアプローチは靭帯や関節に正しく作用しているのか?」と自分自身に問い続けていました。
施術者としての勘や経験は磨かれてきましたが、それを裏付ける“確固たる根拠”がなければ、どこか心もとないままです。
この疑問を解消するために、私は数え切れないほどの技術セミナーや勉強会に参加しました。
全国の有名な治療家の先生方から学び、仲間と議論し、新しい知識や技術を吸収していきました。セミナーの現場で聞いた「解剖学ではこうなっているんだ!」という先輩方の言葉は、当時の私にとって真実のように響き、素直に受け入れてきました。
しかし、後になって振り返ると、それはあくまでも「他者の言葉」であり、「自分の目で確かめた事実」ではなかったのです。
私は次第に強く思うようになりました。
「本当に人体を理解したいなら、自分の目で、手で、生身の身体を確かめるしかない。」
ここに至るまでには、葛藤もありました。
解剖学は誰もが学べるものではなく、日本ではホルマリン固定されたご献体で学生教育が行われる程度で、臨床家がフレッシュご献体に触れる機会は法律の関係で限られています。
さらに、解剖実習は命を捧げてくださった方々の尊いご意思に基づくものであり、その重みに向き合う覚悟も必要です。
お金も通常のセミナー代よりかなりの値段です。
通常の業務では間違いなく足りない額でした。
それでもなお、私は「真実を知りたい」という気持ちを抑えることができませんでした。
なぜなら、患者様に対して“本物の説明”をしたかったからです。
痛みの原因や身体の仕組みを伝えるときに、単なる知識の受け売りではなく、「自分自身が見て、触れて、確かめた経験」をもとに話ができるようになりたかった。
そうすることで、患者様はより深く安心し、私自身も揺るぎない自信を持って施術に臨めると確信していました。
何より、安心安全にどこよりも鍼灸施術を受けられるサロン作りをしたかった。そのためには最大の知識と経験が必要でした。
そして私は、決断を下しました。
それは、日本を飛び出し、本場アメリカで冷凍保存されたフレッシュご献体を用いた解剖実習に参加するという選択です。
フレッシュご献体は、ホルマリン固定のご献体とは違い、冷凍保存により生体に近い状態を保っています。筋肉や靭帯は柔らかさを保ち、関節は自然な可動域を示し、筋膜は層として滑走性を持っています。血管や神経も色や位置がよりリアルに近く、臨床で触れる身体そのものに近いのです。
イメージはご想像にお任せします。
つまり、これこそが私が長年求め続けてきた「真実を知る学び」そのものでした。
アメリカの解剖実習に参加することは簡単な道ではありませんでした。言葉の壁、渡航費や滞在費といった経済的負担、そして何よりも「解剖実習に臨む覚悟」。
しかし、それらを超えてでも挑戦する価値があると信じていました。
なぜなら、そこにこそ自分の臨床家としての成長を大きく前進させる答えがあると感じていたからです。
「人体解剖学を学ぶ事はなぜ必要だったか?」
その答えを一言で表すならば
「真実を知りたかったから」です。
読んで得た知識だけではなく、実際に自分の目で確認し、手で触れて確かめた経験。それが私の施術に揺るぎない根拠を与え、患者様に対してより深い安心と信頼を提供するための土台になる。
その確信を求めて、私はフレッシュご献体による解剖実習に挑みました。
そして、この学びはこれからの鍼灸施術や整体施術に、必ずや大きな意味を持つものとなっていくはずです。
家族の支えと決断の瞬間
解剖学を学ぶ必要性を強く感じていた私でしたが、現実的な問題として大きく立ちはだかったのは「お金」でした。
私は一人で治療院を営む立場です。
施術をすれば収入になりますが、学びのために長期間日本を離れれば、その分収入は減ってしまいます。
さらに渡航費、受講費、宿泊費、その他食費と雑費。決して軽くはない金額が必要になります。
頭の中では「本当に行っていいのか?」「今はまだ時期ではないのではないか?」という声が何度も響きました。
学びたい気持ちは山ほどある。
でも、生活も守らなければいけない。
そんな葛藤が続く中、私はついに妻に相談することにしました。
正直なところ、少し身構えていました。
反対されるかもしれない。
家計の心配をされるかもしれない。
そう覚悟して切り出した私の言葉に、妻は一瞬の迷いもなく、ただ一言。
「行けばいいじゃん!」
あまりに即答だったので、思わず笑ってしまいました。
その瞬間、胸の中の重たい霧が一気に晴れたような感覚がありました。
妻のその言葉には、経済的な心配や生活の不安を超えた、「あなたが本当にやりたいことなら信じている」という思いが込められていたからです。
「これは貴方への投資よ!笑」と妻に言われましたが、
私は心の中で深く頭を下げました。
学びたいと願う私を支えてくれる懐の深さ。生活を一緒に守りながらも、夢を応援してくれる姿勢。彼女のその在り方に、私は頭が上がりませんでした。
だからこそ、私は心に誓いました。
「必ずこの学びを無駄にしない。必ず臨床に生かし、患者様に還元する。」
家族の存在が学びに与える意味
家族がいるということは、学びに対して新たな責任を背負うということでもあります。独り身であれば、自分の情熱や好奇心のために自由に行動できます。
しかし家族を持つと、「この決断が家族にどんな影響を与えるのか」を常に考えなければなりません。
私は父であり、夫でもあります。
だからこそ、家族の理解と支えがあって初めて、大きな学びに挑戦することができます。
そしてその挑戦は「自分だけのため」ではなく、「家族のため」「患者様のため」という強い使命感に変わります。
フレッシュご献体による解剖実習に臨むとき、私は常に心のどこかで妻や子どもの顔を思い浮かべていました。
彼女たちの笑顔や言葉が、学びへの集中力と覚悟を後押ししてくれました。
「ここでしっかり学んで帰らなければならない」という強い責任感。
それが、私の姿勢をより真剣なものにしてくれたのです。
「読む知識」から「生きた知識」へ
家族の支えを得て渡米し、いよいよフレッシュご献体の実習に臨んだとき、私は自分がここに立てていることの奇跡を強く感じました。
教科書の中でしか見たことのない筋肉や神経が、目の前に本物として存在している。
私の手が触れるその感触は、これまでの「読んだ知識」を一瞬で「生きた知識」へと変えていきました。
「これが現実なのか」「これが本当に患者様の身体の中にあるのか」――その驚きと感動を、私は一つひとつ噛み締めながら学びました。
もし一人で挑戦していたなら、この感動をここまで大きく感じることはできなかったかもしれません。家族が背中を押してくれたからこそ、「この学びを必ず還元する」という意識が強まり、全ての体験が自分の中に深く刻み込まれていったのです。
家族の支えが与えた未来への確信
解剖学を学ぶことは、私にとって単なる知識習得ではなく、人生そのものをかけた挑戦でした。
そこには経済的な不安もありましたし、精神的なプレッシャーもありました。
しかし、妻の「行けばいいじゃん!」という何気ない言葉が、その全てをポジティブな力に変えてくれました。
この経験を経て、私は一層強く確信しています。
「学びは家族の支えがあって初めて、本物の力になる」 ということを。
これからの臨床では、フレッシュご献体で得た知識と技術を最大限に生かしていきます。それは単に施術の精度を高めるためだけではなく、家族が信じて託してくれた学びを、社会に還元する責任を果たすためでもあります。
私は一人の治療家であると同時に、一人の夫であり父親です。だからこそ、この経験を胸に、患者様一人ひとりの健康と幸せを支えることを使命として歩んでいきたいと心から思っています。
第2話に続く
NOTE ↓